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近年のニューロサイエンスの進歩には目覚しいものがある。 PETやfMRIなどといった道具を持たない開業精神科医には、量産されるニューロイメージングの最新知見は脳の機能と心の動き(精神症状)の関連を解明していて、あたかも精神障害の原因がわかったかのごとくに「読まされて」しまう。製薬メーカーのMRが提供する論文も、自社の向精神薬とモノアミンとの関連から症状治癒の有効性を論ずるものばかりで、レセプターだのトランスポーターだのリガンドだのという馴染みのない専門用語で綴られる論考は、精神病理や精神療法の関心から精神科に入った旧世代の医者には、ただただ屈服するしかない。 患者の主観的世界を語りの中から直感的に(客観的ではなく)把握して、精神症状の意味を理解しようと懸命に「頭」を使って推量や内省を繰り返す間主観主義の旧世代精神科医には、可視的な脳画像や分かりのいい数値といった客観データを突きつけられると、もはやぐうの音も出なくなる。 丁寧な診療を心がけても数はこなさねばならない外来開業医には、こんなニューロサイエンスの教えは間主観の「頭」を働かせずに済む診察効率のよい妙薬であり、とくに診断と薬物療法のマニュアルはコンビニエントであるから、嗜癖的でさえある。しかし精神薬理の解説に従って薬剤選択をしても、論じられているほどの治療成果が得られない現実に直面しては、困惑してしまうのだが、そんな場合も悩まずにアドオンすべき薬剤を教えるオーグメンテーション・セラピーという「科学的」丁寧さにはつい頼りたくなるが、それでも治療的反応がないと、あとはエポケーに陥るだけである。 薬を使うからには精神薬理の不勉強は恥じて勉強するとしても、ただ症状を機械的に数えて「顔のない病名」を診断し、アルゴリズムを鵜呑みにした処方薬を当てはめるだけなら、(心でなく)脳の精神医療、脱人間化の医療と言うしかないが、自虐的過ぎる反省だろうか。 DSM世代と称される若い精神科医は、初めからこのような「科学的」思考を得意としているらしく、ある学術雑誌のエッセーで、患者を前に症状項目を指折り数えて診断している若い医者の笑い話を目にしたが、笑えないほどこのような客観主義は精神医療には普通になっている。そこでは深い精神病理の思考はほとんど無用のようで、実際のところ私の知る若い精神科医たちは木村敏も笠原嘉も土居健郎も(敬称略)、旧世代を導いてくれた大先生の名も著書も知らなくていい診療をしている。 先達の精神病理学は単に統合失調症、うつ病、神経症の精神病理の構造を明らかにしただけでなく、病者の生き方や価値志向、認知の特性といった人間学であったからこそ、われわれ治療者にも同時代人として通底する病理に共感を呼び了解され、それが精神療法上の武器になっていたとおもうのだが、今はそのような小難しい精神病理は捨象して客観的に把握しようとする脳科学の精神医療が「科学的」とされている。 しかし、よく考えてみると、特定のモノアミンと脳の局在を因果論的に結びつけた科学的データは、閉ざされた系においては正しくとも、その因果が次の系の原因に連なっている複雑系の産物である精神現象を説明する確からしさはない。だから数値や画像に裏付けられた客観データを基にしたテーラーメイドの治療が個々の顧客の満足を得られるはずがないのは、当然至極だとおもう。 神田橋條治先生は昨今の精神医療について、こう批判している(『「現場からの治療論」という物語』より)。昔は「病を治すのではなく、病人を治す」と教えられたが、今は病どころか、症状を治す医療、さらには検査値を治療する医療がはびこり、確かさを追求するあまり主観を排除し客観性と数値と統計を重視した結果、「医学栄えて、医療滅ぶ」流れが加速している、患者となった者が身をゆだねることができるのはすぐれた職人芸と人情をもつ、個人としての医療者の主観的判断、つまり勘と心身状況への患者自らの主観的な感覚であるから、客の主観を無視せず客も参加できる医療の復権を訴えている。 130年も前に「病を見ずして病人を診よ」と学徒に説いた慈恵医大の学祖・高木兼寛の教えは、今もなお、いや客観偏重で脱人間化の流れにある今こそ、警鐘となるのかもしれない。 『外来精神医療』(外来精神医療学会誌) 巻頭言10巻2号2010年
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