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学校に居場所がない、と訴える子どもは少なくない。 孤立を余儀なくされる苦痛を意味しているのだが、そもそも居場所とはなんだろうか。少なくとも安心感が保証された居心地のいい空間でなければならないのだが、そこには承認や信頼に裏打ちされた人間関係が必須の条件となろうかと思う。 ある女子高校生は、孤立する休み時間と昼時が辛く、居たたまれなくなって不登校に陥っている。誰からも声をかけてもらえない、昼食を共にする相手がいない、休憩時間は針の筵だ、という。授業の合間といった、自分の立場や役割が見えにくくなる繋がりの「空白」が怖いのだ。その空白を、保健室の先生や心の相談員との関係で埋め合わせられればまだいいのだが、そういった縁も希薄だと空白は緊張を強いられる孤立無援の空白となってしまう。 昨今の若者には、この孤立していられる力が乏しいのかもしれない。孤立していられる力とはなんだろうか。孤立していても孤独を感じないでいられるのは、なぜだろう。 子どもの後追い行動を思い出してみれば分かりがいいのかもしれない。幼児の心に安心と保護を保証するお母さんという対象が未形成のうちは、一人状況の外界は恐怖に覆われ泣き叫ぶしかない。しかし子どもに安心と安全を保証する記憶が形づくられれば、視界に母親が不在であっても、一人で遊んで待てるのである。つまり、内的に安心できる対象が存在するようになれば、孤立していても外界と遊べるのである。 とかく依存と自立は対立二項的に捉えられるが、依存からストレートに自立しているのではない。孤立していられる力の開発が、外界に働きかける姿勢を可能にしているようだ。孤立からの脱出。その重要な鍵は、子どもの内的世界と繋がり、安心できる二者関係の成立にある。
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